第3章
樋口浅子は相澤家の実家の書斎に訪れた。部屋の中は静まり返っていて、相澤おじいさんだけが一枚の絵を左右に傾けながら眺めていた。
「相澤おじいさん」樋口浅子は優しく声をかけた。
相澤おじいさんは顔を上げた。その年老いた顔には慈愛に満ちた表情が浮かんでいる。彼は手にしていた絵を下ろした。「浅子ちゃん、来たのか。さあ、座りなさい」
樋口浅子は相澤おじいさんの隣に座り、筆で絵の空白部分に鳥が飛ぶ姿を描き加えた後、筆を止めた。
「相澤おじいさん、ここに言葉を書き入れていただけますか」
「この鳥は本当に生き生きとしているな……浅子ちゃん、ここまでで絵は完成じゃないのかい?」
樋口浅子は筆に墨をたっぷりと含ませ、相澤おじいさんに手渡した。
「まだですよ、おじいさん。言葉を書き入れた後、この絵を展示場に持ち帰って、墨で雲を重ねて描き加えるんです。そうすれば『懐かしさ』の雰囲気が出てきますから」
「そうか!うちの浅子ちゃんは本当に素晴らしいね。わしが何を求めているか完全に分かっているんだな」
相澤おじいさんは嬉しそうに筆を受け取り、墨をつけて宣紙に「懐旧新歓」と書き入れた。
「浅子ちゃん、知っているかい?おばあさんはわしに何度も昔に戻りたいと言っていたんだ。ようやく彼女を連れて過去を覗けるようになったよ」
相澤おじいさんはそう言いながら、書き終えた作品を樋口浅子に渡した。
樋口浅子はそれを受け取り、相澤おじいさんに浅い笑顔を見せた。「おじいさんの気持ち、相澤おばあさんにきっと伝わりますよ」
樋口浅子はその文字を優しく撫でながら、心に感動の波が広がるのを感じた。
この一枚の絵は、相澤おじいさんが二年前から彼女に共同制作を頼んでいたものだった。
その間に下書きだけでも五十枚も描き、最終的にこの一枚が選ばれたのだ。
樋口浅子が絵をギャラリーに持ち帰り、最後に使う特殊な絵の具を見つけ出し、水で溶いて描き終えたところで、横から素早く手が伸びてきて絵を奪い取った。
樋口浅子が顔を上げると、その人物は他でもない、相澤裕樹が心を寄せている藤原美佳だった。
「藤原美佳!何をしているの?」
「何って?あなたに関係ある?ただあなたの絵を見ているだけよ。そんなに大げさに驚く必要ある?」
藤原美佳の声は甘ったるいが、言葉は明らかに意地悪だった。
樋口浅子はこの三年間で彼女の意地悪には慣れていた。相澤裕樹が帰ってこない数え切れない夜に、藤原美佳から送られてくるメッセージは悪意に満ちたものばかりだった。
「返して。それは私のもの、触る権利はないわ!」
樋口浅子はギャラリーの一角に立ち、藤原美佳が手に持つ絵をじっと見つめていた。
彼女の声は少し震えていた。「藤原美佳、まずその絵を下ろして。今墨を塗ったばかりなの。そんな風に持つと絵が台無しになるわ!」
藤原美佳は眉を軽く上げ、嘲笑を含んだ笑みを浮かべた。「樋口浅子、あなたって本当に器が小さいわね。たかが一枚の絵じゃない。大したことなければ私が買い取ればいいでしょ」
樋口浅子の表情が微かに変わり、焦りが胸に広がった。他のものなら藤原美佳と争うのも面倒だったが、この絵は特別だった。相澤おばあさんの長寿を祝う贈り物として特別に作られたものだった。
「この絵は売りませんよ」
「売らなくても売ることになるわ」藤原美佳は手の中の絵を無造作に動かしながら言った。「樋口浅子、はっきり言っておくけど、私があなたの絵を買うのはあなたの光栄よ。このぼろギャラリー、午後ずっと誰も来てないじゃない。裕樹お兄ちゃんがいなかったら、とっくに飢え死にしてるわよ」
樋口浅子は怒りで両手を固く握りしめた。「あなたに何の関係があるの?言ったでしょ、この絵は売らないって!」
藤原美佳はまったく気にする様子もなかった。「それはあなたの勝手にはさせないわ」
樋口浅子は絵を見つめたまま、藤原美佳が絵をしっかり持っていない隙を見て、一気に奪い取り自分の胸に抱きしめた。
しかし、その動きに気を取られ、藤原美佳がよろめいて、既に不安定だった樋口浅子にぶつかり、二人は一緒に床に倒れてしまった。
樋口浅子は藤原美佳のことは気にせず、抱えていた絵に問題がないことを確認してから、ようやく安堵のため息をついた。
藤原美佳は狼狽えながら床から立ち上がり、顔を歪め、憎悪の眼差しを向けた。
「樋口浅子、あ頭おかしいの?私を押したの?」
「押してなんかいないわ。ただ私の絵を取り返しただけ」
しかし藤原美佳は被害者ぶって、すぐに相澤裕樹に電話をかけた。
「もしもし、裕樹お兄ちゃん、私、誰かに押されて転んじゃった。痛いよ、今どこにいるの?」
「樋口浅子のギャラリーよ」
相澤裕樹は本当に藤原美佳を大切にしていた。以前は樋口浅子が電話をかけても出ようともしなかったのに。
今や藤原美佳が場所を言っただけで、10分も経たないうちに駆けつけ、樋口浅子に向かって矢継ぎ早に怒鳴った。
「樋口浅子、本当に狂ったのか?今度は暴力まで振るうようになったのか!」
怒鳴った後で、樋口浅子も床に座り込んでいて、怪我をしているように見えることに気づいた。
「私はそんなことしてない!藤原美佳が先に私の絵を取ったから、取り返しただけよ」
そう言っている間に、藤原美佳は涙目になって相澤裕樹の腕を引いた。「裕樹お兄ちゃん、ただお姉さんのギャラリーの商売が良くないから、この絵を買って少し助けようと思っただけなのに」
「あなたの助けなんて必要ないわ!」樋口浅子は怒りを込めて言った。
相澤裕樹はこめかみを揉みながら言った。「樋口浅子、もういい加減にしろ。お前が美佳ちゃんを好きじゃないのは分かっているが、こんな風に彼女を標的にする必要はない」
彼は樋口浅子が抱えていた絵を力ずくで奪い取った。
彼の力は強く、樋口浅子は絵が破れるのを恐れて手を放すしかなかった。
「お前のギャラリーの絵は売るためのものだろう?見たところ、ギャラリーの絵の最高額は3000万円だ。俺が3000万円出す。この絵は俺たちが買い取った」
藤原美佳はこの絵が3000万円もすると聞いて、目に嫉妬の色が浮かんだが、すぐにまた可哀想な様子を装った。
「そうよ、浅子お姉さん。相澤おばあさんの誕生日が近いから、この絵をプレゼントにしようと思っただけなのに」
その言葉を聞いて、樋口浅子は冷たく笑った。
藤原美佳がこの絵を誕生日プレゼントにするつもり?自分で自分の首を絞めることになるのが分からないのだろうか?
しかし今、相澤裕樹は一方的に藤原美佳を支持しており、彼女がどれだけ言っても無駄だった。
「相澤裕樹、本当に藤原美佳の味方をするつもり?」
「他に誰の味方をするというんだ?お前か?その資格があるのか?」
相澤裕樹はもう話す気もなく、小切手を樋口浅子に投げつけ、藤原美佳の手を引いて外に向かった。
二人が去った後、樋口浅子は怒りと悲しみに包まれながら、冷静になって初めて自分の足がぶつかって痛み、立ち上がれないことに気づいた。
そんな時、友達申請が届いた。
プロフィール画像は真っ黒で、名前はただの点、メモには808と書かれていた。
808、あの夜のホテルの部屋番号だ。
樋口浅子は涙を拭き、スマホを操作してその人の友達申請を承認した。
「こんにちは、お願いがあるのですが。このお願いを聞いてくれたら、後でまとめてお金を払います」
「何の用だ?」相手は冷たく返信した。
「怪我をして動けないんです。この住所に薬を買って来てもらえませんか?」
樋口浅子はギャラリーの住所を送信した。
一方、相澤裕樹は携帯の位置情報を見ながら、眉間にしわを寄せていた。
やはり怪我をしていたのか。
「相澤健司、美佳ちゃんを病院に連れて行って、体をぶつけてないか検査してくれ。俺は少し用事がある」
藤原美佳が引き止める間もなく、相澤裕樹は素早く車を降りた。
相澤健司が車で去った後、相澤裕樹は相澤健太に電話をかけた。
「相澤健太、先日注文したマスクを持ってきてくれ。それから新しい車でこの場所に迎えに来てくれ」























































